ミーシャ・マイスキー (チェロ奏者・男・1948年生/イスラエル)    


 情感あふれる音色で、まるで聴いている人に語りかけてくるようなチェロの響き。天才チェリストといわれるミーシャ・マイスキーさんは、たくさんの人たちを魅了しています。
 世界中を飛び回り、華やかな舞台で活躍しているマイスキーさんですが、その半生は波乱に満ちたものでした。旧ソ連のラトビア共和国でユダヤ人一家に生まれたマイスキーさんは、17歳で全ソビエト音楽コンクールで優勝し、続いて翌年にはチャイコフスキー国際コンクールでも入賞し、一躍脚光を浴びるようになりました。ところが、ピアニストだった姉がイスラエルに亡命したことから、マイスキーさんも亡命するのではないかと政府から警戒され、強制収容所へ入れられてしまったのです。収容所では、セメントを運ぶ強制労働を強いられたり、楽器はおろか楽譜さえも見ることができない生活を強いられました。しかし、その苦しい状況の中でもマイスキーさんは心の中でチェロを奏で、常に音楽のことを考えていたといいます。音楽がマイスキーさんの心の支えになったのです。
 2年近くにわたった収容所生活からようやく解放されたマイスキーさんは、すぐさまイスラエルへ逃れ、やがて奥さんと子ども二人に囲まれた幸せな家庭を築きました。
 多くの人の心をとらえて離さないマイスキーさんが奏でる調べ。そこには、マイスキーさんが歩んだ過去のつらく苦しい体験が生かされているのです。
 マイスキーさんの素晴らしい演奏と温かくもせつない音色の秘密を“聴いて”みませんか。



Q & A

先生がつらい時、心にあった音楽はなんですか? また、言葉はありますか?

 私の人生で最もつらかったのは、22歳の時に2年近く強制収容所に入れられたことです。楽器はおろか楽譜さえも見ることが許されませんでした。 けれども、私の心の中にはいつも様々な音楽が流れていました。なかでも、その多くを占めていたのが、バッハの曲です。つらい生活を強いられた私にとって、バッハが生み出した美しい調べは、とても大きな支えとなりました。 言葉は特にありません。むしろ音楽です。私は、どんな言葉を使っても、音楽を越えた表現はできないと思っています。
考 え て み よ う

● 私はバッハの「無伴奏チェロ組曲」を、幼い頃から40年以上も弾き続けています。 私をとらえて離さないバッハの魅力。それはどんなところだと思いますか?
● あなたは、幼いことお父さんやお母さんが歌ってくれた子守歌を覚えていますか。 子守歌は、たとえ言葉が分からない赤ん坊にも、親の愛情はちゃんと伝わります。 一体それは何故だと思いますか?
メ ッ セ ー ジ 「音楽は世界で最も普遍的な言語である、と私は信じています。音楽家であることによって、文化的な背景や言語、宗教などの違いを乗り越え、世界中の人たちとコミュニケーションをはかることができるのです。 いま、世界はますます複雑になり、各地でしかも日常的にさまざまな対立や衝突が起こっています。でももし、人々が対立や破壊よりも音楽や芸術、自然の中の美、この世のあらゆるものの中にある美というものに目を向けてくれたら、私たちはみんなで、この世界を少しでも良い場所に変えていくことができる、と私は思います。」
特 別 授 業
緑に囲まれたマイスキーさんの家

 マイスキーさんの自宅は、ベルギーの首都ブリュッセルの郊外、豊かな緑に囲まれています。生まれ育った旧ソビエトを離れたマイスキーさんは、一つの国にとどまることなく演奏活動を続け、心の休まる場所がありませんでした。 その後伴侶となる妻と出会い、子どもにも恵まれたマイスキーさんは、環境の素晴らしさに引かれて移り住みました。今やかけがえのない安住の地です。 最初に子どもたちを案内したのは、いつもマイスキーさんが練習している部屋です。普段めったに人を通すことはありませんが、今回は特別に公開してくれました。 たくさんの楽譜やCDそして、お気に入りのステレオセットがきれいに収納出来るように、マイスキーさん自らデザインしました。初めて目にする有名な演奏家の練習部屋は、音楽好きの子どもたちにとって、とても興味深いものでした。
マイスキーさんの自宅


楽譜がびっしり収納
された棚


マイスキーさんの自宅
近くの公園で、自然と
音楽について語る

授業風景
(1)「バッハに込めた想(おも)い」
  今回の特別授業の先生は、世界的なチェリスト、ミーシャ・マイスキーさんです。とりわけバッハの演奏は深みがあって陰影に富んでいると高い評価を受け、たくさんの人をひきつけています。
 授業が行われたのは、ベルギーの首都ブリュッセルの郊外、豊かな緑に囲まれたマイスキーさんの自宅です。ベルギーのインターナショナルスクールに通う7人の子どもとマイスキーさんの2人の子どもが参加しました。
 1回目の授業でマイスキーさんは、自らの演奏がどのようにして生まれたのかを伝えました。1948年に旧ソビエトのラトビア共和国で生まれ、11歳の時に兄からバッハの楽譜をもらったことがチェリストをめざすきっかけとなったこと。数々のコンクールに入賞し、当時のソビエトを代表する音楽家の元で練習に励んだこと。そして、活躍を目前にした22歳の時にユダヤ人であることから強制収容所に送られて味わった辛酸。さらには、世界的なチェリストになるまでに乗り越えなければならなかったいくつもの壁。
 次ぎにマイスキーさんは、4枚のCDを取り出し、演奏家の名前を伏せて子どもたちに聞き比べをさせました。その中には、15年の期間を置いてマイスキーさんが録音した2枚のCDがありました。子どもたちは、新しく録音された曲の方が、自由で伸びやかに奏でられていることに驚かされます。
 マイスキーさんは、偉大な音楽にはここまでという限界がないこと。つまり演奏家としての成長も同じように限りがなく、生きている限り追い求めていきたいという自らの信念を語り、尊敬するバッハを演奏して授業を締めくくりました。

チェロの演奏を
織り交ぜながらの授業


11歳の時に
兄から贈られた
バッハの無伴奏組曲
の楽譜

 
(2)「子守歌を覚えていますか」
  「自分が幼い頃に聴いた子守歌を思い出して調べてくる」2回目の授業で、マイスキーさんは子どもたちに課題を出しました。
 発表の場は、美しい中世の建築が残る、マイスキーさんの自宅近くの公園です。ベルギーの公用語の一つであるフラマン語、フランス語、ポルトガル語、英語、そして東ヨーロッパのユダヤ人に伝わるイディシュ語。インターナショナルスクールの子どもたちだけに、国際色豊かな発表会になりました。そして、たとえ歌詞が分からなくても、親が我が子へと注ぐ愛情を心で感じられることに気付いていきます。2回目の授業でマイスキーさんは、音楽には言葉とは違った力があることを子どもたちに伝えようとしたのです。
 旧ソビエトのユダヤ人家庭に生まれ、強制収容所生活を強いられたマイスキーさんは、その後イスラエルへ移住し、さすらい人のように世界中を転々として音楽活動を続けました。言葉が全く通じない生活のなかで、マイスキーさんにとって最も頼ることが出来るコミュニケーションの手段、それが音楽だったのです。
 再び自宅に授業の場を移したマイスキーさんは、子どもたちの前で「ひばりの歌」という曲を演奏しました。ブラームスが作った「ひばりの歌」は、もともとは歌といっしょに演奏する歌曲です。マイスキーさんはいま、こうした歌曲に歌を付けずに演奏する活動に力を入れています。
 「夢を見ているかのようだった」「穏やかな朝、素晴らしい一日の始まりを感じた」「幸せと悲しみその両方を感じた」子どもたちは、それぞれの感性で「ひばりの歌」を受け止め、マイスキーさんが演奏に託した願いを確かに受け止めました。

公園で課題の
「子守歌」の発表会


「ひばりの歌」を
奏でるマイスキーさん
(伴奏・妻のケイさん)


 NHK『未来への教室より』