Keith Haring
1958年ペンシルバニア州、レディングに生まれる。その後カッツタウンにて子供時代を過ごす。1978年「ピッツバーグセンター」にて個展を開催。ニューヨークに移り住む。1979年ニューヨーク市内の地下鉄の広告看板にチョークでドローイングを描き始める。1981年「P.S.122」「クラブ57」で個展を開催。1982年「ロッテリダム・アーツ・カウンシル」にて個展。「トニー・シヤフラジ・ギャラリー」にて友人のLA‖とともに個展。ヒューストン・ストリートの壁画に蛍光塗料で巨大な壁画を制作。「パラダイス・ガレージ」にてインスタレーションを行う。「ドクタメンタ'82」(ドイツ、カッセル市)に出品。「UFOショー」(クィーンズ美術館)の企画展に出品。1983年「ファン・ギャラリー」にてLA‖との共作による個展。「ギャラリーワタリ」(東京)にて個展。イタリア、ベルギー、イギリスなどのギャラリーにて個展を開催。「バイエニアル'83年」(ホイットニー美術館)の企画展に出品。来日し、スポーツ新聞から雑誌、NHKの番組にも出演。1984年アイオワ州アイオワ大学付属美術館で個展。「パラダイス・ガレージ」にて大きな個展を開催。「第3回ビエンナーレ・人間の条件」(サンフランシスコ近代美術館)の企画展に出品。「アベルト'84・ベネチアビエンナーレ」(イタリア)にも出品。ヴィクトリア国立美術館(オーストラリア)、コンウッド工業高校(オーストラリア)、ウォーカーアート・センター、キャンディ・ストア、そしてアスファルト・グリーン公園などの壁画を手がける。ニューヨーク清掃局の依頼による「ゴミ捨て撲滅キャンペーン」のロゴマーク等をデザイン。「国際青年年」にあわせて記念切手の企画に参加。グレース・ジョーンズのボディペインティングを手掛ける。1985年「トニー・シャフラジ・ギャラリー」及び「レオ・キャステリ・ギャラリー」で同時に個展を開催。フランス、ボルドーの現代美術館において大規模な壁画を制作。「パリ・ビエンナーレ」に出品。ユニセフのアフリカ緊急援助基金のための「レイン・ダンス」と題した展覧会を開催。マルセイユの国立バレエ団の依頼によるローラン・プティの振付けによる『天国と地獄の結婚』のためのセットを制作。ニューヨークのディスコ、「パラディウム」のための、背景画の制作を行う。1986年ハマーショルド広場の彫刻の庭にキースの作品が展示される。オランダ、アムステルダムのステデリック美術館で巨大な天井画を含む大規模な展覧会を開催。ニューヨークのラファイエット通りに「ポップ・ショップ」を開店。以前より、さまざまな子供たちのための絵画教室を開いていたが、この年、「自由の女神建立100周年」の記念行事にささげられた巨大な垂れ幕は、子供たちや若者とともに制作し大きな話題となる。壁画制作の代表的なものといえる「ベルリンの壁」に90メートルの作品を残す。1987年トニー・シャフラジ・ギャラリーで個展を開催。ベルギーの、アントワープ、クノッケ、及びフィンランドのヘルシンキのギャラリーでの個展開催。壁画も多く制作。イェール大学での講演会を行う。また、ニューヨーク市の依頼を受け、市民プールに巨大な壁画を制作。「エイズ撲滅のためのアート展」に出品。アンドレ・ヘラーの企画によるヨーロッパを巡回する構想の移動美術館「ルナルナ」のためのメリーゴーランドを制作。東京多摩市の子供たち500人とともに壁画を制作。1988年ハンス・メイヤー・ギャラリー(デュッセルドルフ)での個展の開催。「ボディー・アンド・ソウル」の舞台、及び衣裳をデザイン。「ホワイト・ハウスのイースター」に参加して壁画を制作。「ニューヨーク・シティ・バレエ創立40周年記念」のポスター及びTシャツ等のイメージを制作。国連の「国際ボランティア・イアー」の記念切手の発行にあわせてリトグラフを制作。1989年ベルギー、アントワープでの個展開催。作家のウィリアム・S・バロウズとの共同の展覧会をニューメキシコ州のサンタフェで開催。イリノイ州シカゴで全長156メートルの巨大な壁画を高校生300人と制作。イタリア、ピサ市の依頼を受け、サン・アントニオ教会の外壁に壁画を描く。フランス革命200年祭に「天井のギャラリー」と題して、飛行船をデザイン。1990年国連の「エイズ防止・世界年」に対して記念切手びリトグラフを制作。2月16日、ニューヨーク、グリニッチヴィレッヂのアパートでエイズに帰因する病気のため亡くなる。享年31歳。