Egon Leo Adolf Schiele
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エゴン・シーレ(Egon Leo Adolf Schiele) オーストリアの画家、表現主義による鋭い人物描画を得意とした。1890年6月12日、ウィーン近郊ドナウ湖畔の小さな町トゥルンの駅舎の二階にて、オーストリア・ハンガリー帝国国有鉄道運営局幹部職員の父アドルフ・オイゲン・シーレ(1851-1905)と母マリー(旧姓ズークプ1862-1935)の第三子として生まれる。二人の姉、長女のエルヴィラは1883年、次女メラニーは1886年に生まれた。1893年3歳 姉エルヴィラ死亡1894年4歳 後にしばしば彼の作品のモデルとなる妹ゲートルーデ(ゲルティ)が生まれる。1914年には彼女はシーレの友人の画家、アントン・ペシュカと結婚(1981年に死亡)。1896年6歳 トゥルンの国民学校(小学校)に入学。 1900年10歳 トゥルンのクレムスの理工系高等学校レアールギムナジウムに進む。 1902年12歳 秋、父アドルフが梅毒による進行性麻痺によって退職し、年金生活者となる。一家はクロスターノイブルクに移る。シーレは、同地のレアールギムナジウムに転職し、第一学年を繰り返す。 1905年15歳 父アドルフが、1904年の12月31日から1905年の1月1日にかけての夜に永眠。叔父であり、名付け親でもあるレオポルド・ツィハツェック(父の妹の夫)が後見人となる。シーレは最初の自画像を含め、多数の絵を描き始める。 1906年16歳 シーレのデッサンの教師ルードヴィヒ・カール・シュトラォホから美術教育を受ける。秋から、後見人レオポルド・ツィハツェックの希望に逆らってウィーン美術アカデミーのクリスティアン・グリーペンケール教授の教室に入学。 1907年17歳 ウィーン二区クルツバウアー街六番地に最初のアトリエを構える。グスタフ・クリムトと個人的に知り合い、その様式、および<ウィーン分離派>の影響を受ける。妹ゲルティとトリエステ旅行に行く。 1908年18歳 クロスターノイブルの修道院「皇帝の間」での展覧会に初出品(5月−6月)。10点の作品が展示された。この年から翌年にかけて、時折ウィーン工房のデザインの仕事をする。ヨーゼフ・ホフマンと知り合う。 1909年19歳 ウィーンの第二回「クンストシャウ」に参加。四点の作品を出展する。4月にウィーン美術アカデミーを退学。学友達とアカデミーに反発して「進芸術集団」を結成。12月に「進芸術集団」の第一回目の展覧会をピスコ芸術サロンで開催。これを機に、「労働者新聞」の記者で美術評論家のアルトゥール・レスラーに認められ、重要なコレクター、カール・ライニングハウスを紹介される。 1910年20歳 自分の様式を獲得。多数の表現豊かな裸体画を制作した。ヨーゼフ・ホフマンの推薦で、シーレはウィーンの「国際ヤークト展」に作品を一点出品する。この年の秋のクロスターノイブルクにおける展覧会を機に、官吏でコレクターのハインリッヒ・ベネッシュと知り合う。詩を集中的に製作。 1911年21歳 初のグループ展をウィーンのミートケ画廊で開催(4月〜5月)。アトリエを彼の母の故郷であるボヘミアのクルマウに移す。クリムトのモデルだったヴァリー・ノイツィルとの同棲生活が始まるが、その奔放な生活ぶりを理由に二人は住民に排斥され、数ヶ月でウィーンに戻る。8月、ヴァリーと共にノイレングバッハに移る。ミュンヘンの美術商ハンス・ゴルツと知り合う。11月、ミュンヘンの芸術家協会「ゼマ」に入会。アルベルト・P・ギュータースローおよびアルトゥール・レスラーのエゴン・シーレにかんする最初の論文が発表される。 1912年22歳 4月13日、「不道徳」と「未成年者誘拐」の容疑で囚われ、ノイレングバッハとザンクト・ペルテンで三週間の未決勾留。「猥褻な図画の流布」を理由に三日間の禁固刑を受け、24日間の拘留後、5月8日に釈放される。10月、数年間住むことになるウィーン八区ヒーツィンガー・シュトラーセ101番地にアトリエを移す。クリムトの紹介で年末から資産家アウグスト・レーデラー家の客としてハンガリーのジェールに招かれる。これを機に、再び製作を旺盛に展開する。1913年23歳 春、ミュンヘン分離展に参加。また多数の絵画展に参加し、個展も開く。6月、トラウン湖ぞいのアルトミュンスターで、アルトゥール・レスラーの客となる。8月、オシアハ湖畔のザッテンドルフへ。ベルリンの左翼系雑誌「ディー・アクツィオーン」にデッサン、版画、詩の寄稿を始める。 1914年24歳 カール・ランニングハウス主催のコンクールがピスコ芸術サロンで開かれる。壁画規模の大作<邂逅>を出展するが、二つの賞はそれぞれアントン・ファイスタウアーとアルベルト・P・ギュータースローが獲得する。写真家アントン・トルチカと共同で実験的なみずからのポートレートを制作する。ハルムス姉妹との出会い。ロベルト・フィリッピ〜エッチングの技法を学び、六点の作品を制作。12月31日、ウィーンのアルノット画廊でグループ展を開催(1915年1月31日まで)。 1915年25歳 四年間続いたヴァリー・ノイツィルとの関係を解消。6月17日、エディット・ハルムスと結婚。その四日後、第一次世界大戦下のオーストリア軍に入隊させられ、プラハに向かう。ボヘミアのノイハウスに配属されたのち、ウィーン周辺の事務に従事、年末にロシア軍捕虜護送部隊に編入される。この後の二年間はほとんど製作できなかった。 1916年26歳 ベルリン分離派の「ウィーン美術展」他に出品。春、ニーダー・エスターライヒのミューリングのロシア軍将校の捕虜収容所に官房書記として転属。上官の理解によりアトリエを与えられ、軍務のかたわら絵を描く機会を与えられる。3月8日から9月30日までシーレは戦争日記を書く。9月、ベルリンで発行されていた「ディー・アクツィオーン」誌がシーレ特集号を発行。 1917年27歳 ウィーンに戻り、帝国兵站局に勤務、陸軍物資調達事務所に配属される。春から夏にかけて兵站局の支部での活動を記録する仕事のために主にチロルへ取材する。九月末、ウィーンの陸軍博物館に配属。カイザー・ガルテン(「プラーター」)の戦争展覧会と、アムステルダム、ストックホルム、コペンハーゲンにおけるオーストリア美術展に参加。共同工房「クンストハレ」設立計画は実現しないまま終わっている。ウィーンの雑誌「アンブルッフ、戦時下のパンフレット」のために製作。書籍商リヒャルト・ラニイがシーレの素描12点をまとめてコロタイプ印刷で出版。1918年28歳 三月、第49回ウィーン分離派展のメイン・ルームがシーレに与えられる。ポスターも製作する。同展覧会は、芸術的、経済的にも多大な成功を収める。エゴン・シーレの作品は広い層に迎えられ、画家としての地位は確立する。チューリッヒ、プラハ、ドレスデンの美術展の重要な出展者となる。この成功により、6月5日、ウィーン八区ヴァットマン・ガッセ六番地のアトリエつき住宅に移る。春からスペイン風邪(インフルエンザ)が大流行し、九月に襲来したその第二波に感染して10月28日、妊娠中の妻エディットが没する。三日後、10月31日の夜、シーレ自身もこの疫病の犠牲となり、妻の後を追って28歳の短い生涯を閉じた。その床のシーレをマルタ・ファインが撮影し、彫刻家アントン・ザンディヒがデス・マスクを製作した。1月3日にオーバー・ザンクト・ファイト墓地に埋葬された。画家グスタフ・クリムトと活動時期が重なっているのは有名だが、じつはあのヒトラーとも同世代であり、同じ美術学校を受験していた!シーレは受かり画家へ、ヒトラーは落ちて独裁者への道を歩んだ。シーレは自画像のためのスケッチに於いてこう述べている。 「ぼくは思う。"現代的な"芸術などありはしない。在るのはただ一つの芸術、永遠に続く芸術だけである」(匠規)