Jean Cocteau
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ジャン・コクトー Jean Cocteau 。1889/07/05 〜 1963/10/11。フランス の セーヌ=エ=オワーズ 出身。戯曲作家、評論家、詩人、画家、映画監督、など活動範囲は幅広く 多才な総合 前衛芸術家。自身は「詩人」と呼ばれるのを好んだ。☆女☆いっぱい いた☆エミリー・ルノー。オペラ歌手めいた母方の祖母。別荘メゾン・ラフィットに幼少年期のすべてのオブジェがあり、木馬などを晩年まで偏愛した。☆ウージェニー・コクトー。母親。プリュイエール通りの2階建の大邸宅にいて、コクトー曰く「劇場そのもののような女性だった」少年コクトーは雑誌を切り抜き組み合わせて劇場遊びに耽る。母も父も電気のように激しかった。☆マドレーヌ・カルリエ。17歳のときに夢中になった30歳の駆け出し女優。この浮気女への悲しみはのちのちまでコクトーのどこかに沈潜して結果『大胯びらき』になる。☆1911年 菫色の眼をしたアンナ・ド・ノアイユと馬車の中で出会う。詩人で伯爵夫人でサロンの女王。2人の間に、突然「墓をも凌駕する友情」が生まれた(と、コクトーは思った)。アンナは病弱で繊細でいて野生のヒヤシンスのような高貴に深く親しんで東洋風の家を好んだ。コクトーの詩なんて「読まないわよ、嗅ぐだけよ」と言ってのける13歳の年上の "美しい姉" の筆跡をまねてコクトー詩人になった。☆ミシア・セール。大胆なスケーター姿のミシアをロートレックが描いた。ディアギレフはミシアにはなんでも相談できた。そのディアギレフはコクトーの才能を「ワインのようだ」と見抜くが、「俺を驚かせてみろ」と発奮させた。そのディアギレフをコクトーに紹介したミシアを、コクトーは「何ひとつ月並みのものがない女性」「空気のような才能をもっている」と称えた。☆ヴァレンティンヌ・ユゴー。エリック・サティを紹介。これでミシア、コクトー、ヴァレンティンヌ、サティの4人組に、ピカソが加わり、ここから暴発劇『パラード』ディアギレフがついに兜を脱いだバレエ雑音劇が生まれた。☆浪漫の毛皮を気取って着ていたコクトー、サティ、ピカソを、まるで少年を扱うようにあっというまに手なづけてしまった女がいた。コルセットをはずし髪はシャム猫のように短い。ギャルソンヌ(男のような娘)と呼ばれたココ・シャネルだ。ココはラディゲを亡くして阿片に陥っていたコクトーを地獄から救い出す。サンクルーの治療所にぶちこみ解毒治療を受けさせた。シャネルはのちに「私は服を作った」とも「私は男を作った」とも言った。☆マリー=ロール・ド・ノアイユ。1923年に結婚の時さえ夫に「私の心は別の人の上にある」と告白。夫は相手がコクトーとわかると得心した。マリーはマン・レイやダリやブニュエルをシネマトグラフに引きこむ。『アンダルシアの犬』『黄金時代』はマリーの別荘で封切りされた。マリーの祖母はプルーストが描いたゲルマント公爵夫人のモデル、先祖にはサド侯爵までいた。コクトーの血に引きつけられるように人々が集まる。マリーが紹介したナタリー・パレは 当時27歳。婦人服デザイナーのリュシアン・ルロンの妻で、父はロシア皇帝アレクサンドル3世の弟。皇帝とナタリの父はボルシェビキによって暗殺された。高貴な家柄が没落して美しい。コクトーはこういう条件に目がなかったし、マリーは肌が透き通った美女。コクトーは夢中になり、妊娠、堕ろさせる。「輝くシャンデリアを必要とする驚くべき植物だ」その植物の花芯に灼かれた。☆ルイーズ・ド・ヴィルモランは、その才能の病気においておそらくコクトーに一番似ていた女性。1930年代のコクトーを支えたのはルイーズ。☆エディット・ピアフも壮年期のコクトーの琴線をぐらぐら揺さぶる。一幕劇『冷淡な美男子』は戦時中に書かれたピアフのための戯曲。コクトーはピアフの内に星色の天鵞絨を見る。「エディット・ピアフは決して存在しなかったし、これからも決して存在しないであろう」ピアフの不幸は同時に彼の不幸になった。☆壮年期にもう一人忘れられない女性 コレット。すでにコレットは美女狩りのレスボスの女王ナタリー・バーネイ(第29夜)や男装の麗人マチルド・ド・モルニーが付きまとっていた。女と女の組み合わせが最高だったコレットは2回結婚に失敗。 そのコレットの前に現れたのがコクトーと彼が愛したジャン・マレー。2人はパレ・ロワイヤルに同棲し、偉大な画家クリスチャン・ベラールが参加した映画『美女と野獣』(ジョゼット・ディが美女、マレーが野獣)に取り組む。コレットは2人の男に形而上的恋をする。しかし話はそこまで。「ニーチェが語ったような、人間の心をもち、跳ぶことができる、あの危険な機械」コレットの命のほうが続かない。☆ブラジル生まれのフランシーヌ・ヴェスヴェレールはコクトーに見染められて『恐るべき子供たち』のエリザベート役もらう。戦後社会。そのころからコクトーはスペインにぞっこんで、この旅はフランシーヌこそが伴侶としてふさわしかった。が、そのときにはコクトー自身の「美の闘牛」が終わろうとしていた。☆女たちの多くがコクトーになにがしかの感情を抱き、なにがしかの切なさを感じた。コクトーはいつも精一杯に女を愛し、そのつど作品を暴発させた。コクトーは女に暴発しなかった。暴発するのは作品と男に対してだけ。★男もいっぱい、いた。☆ピストル自殺した父親。コクトーにはこのときから決定的なタナトス(死の観念)が付きまとった。☆「生徒ダルジュロス」リセ・コンドルセ中等部で少年コクトーを瞠目させた怪物的で神話的な怪童。このダルジュロス体験を綴ったのが、傑作『恐るべき子供たち』。☆リセを中退、アルフォンス・ドーデ夫人のサロンで出会った息子のリュシアン・ドーデ(画家)にちょっと首ったけになった。が、このときはまだサロンの雰囲気が自分をつくるだろうことに夢中になっている。なにしろプルーストたちが出入りしたサロンなのだ。もっとも、コクトーのデッサン熱はこのリュシアンの魅力によっていた。  コクトーがこんなに早くから大人たちに気にいられた理由は、はっきりしない。鼻が高すぎる風変わりな気品によるのか、若書きの詩によるのか、腰つきでもよかったのか、そこはわからない。いずれにしても1908年、コクトーは時の大女優サラ・ベルナールの相手役だった俳優エドアール・ド・マックスに気にいられ、シャンゼリゼのフェミナ座で詩人デビュー。朗読は「プレジュー」(気取り)上出来。☆ フェミナ座の客席にいた青年マルタン・デュ・ガールは、ただちにコクトーの未来を読んで以降ずっと応援しつづけた。☆ もう一人、コクトーの朗読詩(?腰つき?!)に注目したカチュール・マンデスはルートヴィヒ2世の研究者でワーグナー信奉者。そのマンデスが18歳の詩人に惚れて毎週土曜日の昼食に招いた。67歳。翌年 マンデスはサンジェルマンのトンネルの中で轢かれて肉を飛び散らせて死んでしまう。またコクトーをタナトスが襲う。「コクトーを堕落させたのはカチュール・マンデスだった」堕落という好奇心から、筆下ろし。☆ 次からは速かった。コクトーはアンナ・ド・ノアイユとミシア・セールに誘われ、ディアギレフ率いるロシアバレエ団の嵐の中に突入。☆ ニジンスキーの神のような跳躍、レオン・バクストの異教的な装置と衣裳、ストラヴィンスキーの激越な曲想、ドビュッシーの東洋風の静寂、カルサヴィーノの神秘のような魔力。どれひとつとしてコクトーを魅了させなかったものはない。おまけにノヴゴドロ生まれの鬼才ディアギレフが名うての男色家。ディアギレフからは「俺を驚かしてみろ」と突き放され「私はこの瞬間から、死んで、生きる決心をした」とコクトーはのちに書いた。1913年 ロシアバレエ団はシャンゼリゼ劇場でストラヴィンスキーの『春の祭典』の苛烈な上演がコクトーの創造性の内奥を火傷させる。火傷のまま破格な小説『ポトマック』(ある仲のいい夫婦の夢から夫婦の部屋に侵入し、夫婦に吸いつき、殺し、これを食べてしまうという怪物ウージェーヌと、壁のそばにいつもどんより寝そべっている怪物ポトマックが対比された注文の多い小説)を書き、ストラヴィンスキーに捧げる。☆ 時代は第一次世界大戦。戦役体験をしたくて、ポール・ポワレのデザインの半軍服を着て、東部戦線・北部戦線に出て、志願して看護兵にもなる。「戦争とはもっと愉快なものだと思っていた」が、そうはいかない。このころ『山師トマ』モデル、ラウル・トマ・ド・カスティルーノと出会う。☆ 1917年、軍務休暇でサティに作曲を ピカソに装置と衣裳を頼み 一世一代の『パラード』(見世物小屋の前でやる寄席のこと) の製作の準備にかかる。パリに来たサーカス一座の物語に仕立て、おやまかしの言語天才ガートルド・スタインも意見をする。レオニード・マシーン振付けでパリのシャトレ座で幕開けた『パラード』は、見世物師やダンサーたちが狭い舞台を踊り荒れまくるこのバレエで、初日から激しい怒号に包まれ舞踊の要素がひとかけらもないと酷評される。 が、このスキャンダルでコクトーは、ついにディアギレフを驚愕させたのだ。 1919年、16歳の邪悪な天使 レイモン・ラディゲ登場。それからコクトーはラディゲを愛しつづける『白書』が、1923年、わずか20歳で腸チフスで亡くす。このタナトスは彼にとってあまりにも衝撃的で立ち直れず、また阿片に手を出す。心配した友人たちの一部は彼ををカトリックに帰依させようと、カトリックの哲人ジャック・マリタンが真摯な説得に当たる。1925年、マリタンの家の礼拝堂で告解し聖体を拝受。これでコクトーの病いが治癒するわけもなく、まずココ・シャネルがコクトーを阿片から切り離すのに立ち上がる。コクトーは阿片の幻覚が迸っているころの作品『恐るべき子供たち』、そこからの脱出過程『阿片』をのこし、社会復帰。しかし、まだ「男の裸」は足りてはいない。☆ 画家クリスチャン・ベラール。ラディゲ亡きあとやっと巡り会った裸の才能。すでにシュルレアリストたちとは一線を画していたコクトーは を ブルトンはあからさまに憎みつづけ。ベラールはネオロマンティシズムと古典的正統性を隠しもっていた。コクトーは自著の装幀を頼み、しだいに舞台美術や衣裳を依頼するようになっていく。ベラールは“色彩とフォルムの魔術師”と呼ばれながら「ハーパーズ・バザー」「ヴォーグ」にスタイル画を描きまくった。コクトーとベラールの創発的結婚は、1934年、機械的オイディプスを主人公にした舞台『地獄の機械』で実現。オーディションで 彼が亡くなるまで恋人であり続けた ジャン・マレーとの出逢い。『ジャン・マレーへの手紙』『私のジャン・コクトー』★ 1942年 ジャン・ジュネ『死刑囚』、小説『花のノートルダム』はジュネ自身によってコクトーのところに持ち込まれた(第346夜)。  けれどもコクトーは「これはつまらない」と言って突き返す。黙って帰ったジュネに、コクトーは気を取り直して再読し、自分の軽率を詫びだ。しかし、そのコクトーもこう言わざるをえなかった、「あとは盗みをやめることだね」。  案の定、ジュネは本を盗んでまたまた逮捕され、コクトーが弁護士をつける。弁護士は法廷でコクトーの裁判官宛の手紙を読んだ、「私はジュネをあなたにお任せします。ジュネは自分の心身に滋養を与えるために盗みをします。彼はランボオです。ランボオに刑を宣告することはできません」。  彫刻家アルノ・ブレーカーを絶賛したときも、あとでコクトーは悩まされることになる。その均整と力動がミケランジェロにも匹敵すると称賛したのはコクトーだけではなく、ヒトラーでもあったからだ。 コクトーにはしばしばこうした過誤は付き物だった。いや憑きものだ。それはディアギレフを驚かせるときに、すでにコクトーが選んだ負の歴史だったのだ。  戦争が終わってみると、『双頭の鷲』と『美女と野獣』の制作を準備しているコクトーより恰好のいい男は、パリにはもういなくなっていた。コクトーが好む好まないにかかわらず、コクトーはフランス自身の芸術帝王になっていた。サルトルが哲学帝王になったように。このようになったのは、パリが占領から解放されたからでもあった。  だからたとえば、エルメス、パレンシアガ、ランヴァン、スキャパレリ、ニナ・リッチらのファションデザイナーたちが縮尺の型紙でつくった服を次々に提供して、「テアトル・ド・ラ・モード展」を催したこと、それがパリのクチュール界を復興させることになったからといって、驚くことはない。この時期のコクトーはフランス人にとって、すべてのスキャンダルを美にするための魔術師でもあってほしかったからだ。  ここから先のコクトーは、1963年に74歳でパレロワイヤルの寝室で死ぬまで、ジャン・マレーをはじめとする男たちと(最後にジェラール・フィリップが加わった)、あいかわらずの数多くの女たちと、夥しい冊数の書物と(だんだんミステリーやSFがふえていった)、とうていその長さを測れないほどのフィルムと遊びながら(コクトーは映画界の帝王でもあった)、超然とした日々を送る。 「私は人々がオリジナリティーにこだわることが大嫌いなだけなのである。」   フランスのパリ近郊の小さな町であるメゾン・ラフィットでクレマン・ウジューヌ・ジャン・モーリス・コクトー Clement Eugene Jean Maurice Cocteau 誕生。当時12歳の姉マルト、当時8歳の兄ポールに次いで生まれた末っ子。絵を描く趣味があった父 ジョルジュが 1898年 自殺 (『白書』には自分と似ていて男色者だったことを匂わせている。当時8歳)。彼に決定的なタナトス(死の観念)が付きまといはじめたのはこの時からだろう。小説『恐るべき子供たち』のダルジュロスのモデルは中学校時代の同級生ピエール・ダルジュロス。高校生時代には学業には力を入れず、マルセル・プルーストらの芸術家グループと出会うなど文学に没頭。1909年より芸術活動を開始、最初は自費出版で詩集『アラディアのランプ』を発表。ヴァスラフ・ニジンスイーに出会うなど、バレエ関連の人脈も増える。ここから広がるバレエ人脈の中でも、ディアギレフのバレエ団を通じて、ココ・シャネルをはじめ多くの人と出会うこととなる。1911年、イゴール・ストラヴィンスキーと出会う。1915年、アメディオ・モディリアーニをはじめとするモンパルナスの画家との交流が始まり、エリック・サティやピカソとも出会う。1916年8月12日にモンパルナスの喫茶店「ラ・ロトンデ」にピカソ、モイズ・キスリング、モディリアーニ、アンドレ・サルモンらが一同に会し、この時にコクトーが撮った彼らの写真は有名である。1917年、前年からピカソ、サティらと手がけたバレエ「パラード」初演。1918年、後に六人組と呼ばれる作曲家を集めたコンサートを開く。1920年、プーランクらとジャズ奏会など開いたり、一時は興味も覚えていたダダに反対の立場を鮮明にする。この頃、映画への興味を抱く。1924年頃から阿片の常用が始まる。1926年、シュルレアリスト達と激しく対立。1929年、阿片の療養中、小説『恐るべき子供たち』を執筆。1930年、かつてブニュエルの『黄金時代』などにも資金を出したド・ノアイユ子爵の資金援助のもと『詩人の血』初監督。1934年、演劇『地獄の機械』初演。1940年、エディット・ピアフのための演劇『Le Bel Indifferent』。阿片から足を洗う。1945年、代表的映画作品『美女と野獣』をルネ・クレマンと共同監督、ルイ・デリュック賞受賞。1946年から亡くなるまでカンヌ映画祭の名誉委員長。1955年 アカデミー・フランセーズ、ベルギー王立アカデミー入会。1960年、アンドレ・ブルトンの反対を受けながらも「詩人の王」に選ばれる。病床で、親友であったシャンソン歌手・エディット・ピアフの死を知り、その4時間後に亡くなった。■監督 * 双頭の鷲 * オルフェの遺言−私に何故と問い給うな− * オルフェ * 美女と野獣 * 詩人の血 ■出演 * 知られざる男の自画像 * 想い出のサンジェルマン * 山師トマ * クレーヴの奥方 * オルフェの遺言−私に何故と問い給うな− * グレバン蝋美術館 * 一つのメロディと四人の画家 * サント・ソスピール荘 * 恐るべき子供たち * オルフェ * アモーレ * 恐るべき親達 * 双頭の鷲 * ルイ・ブラス * 美女と野獣 * ブローニュの森の貴婦人たち * 悲恋 * 詩人の血 * ■原作/脚本 * 恐るべき子供たち * 恐るべき親達 * アモーレ * 悲恋 * ルイ・ブラス * クレーヴの奥方 * 山師トマ etc . . .