ハングルの授業はいつもちょっぴりドキドキ

──長野県松本蟻ヶ崎高等学校で韓国語を学んだ生徒たち──

 

  長野県塩尻志学館高等学校

 教諭 西澤俊幸

20023月、韓国語*の授業として長野県初の試みだった松本蟻ヶ崎高等学校(以下「松本蟻ヶ崎」と略)の「ハングル基礎」が6年間の幕を下ろした。延べ190名に上った履修者は、みな純粋で知的好奇心に満ち溢れていた。今顧みて、彼らが長野県における韓国語教育の基礎を作ったのだと思う。

*本稿では韓国語・朝鮮語・ハングル・韓国朝鮮語等と呼ばれる隣国の言葉の総称として「韓国語」を用いる。

学校に授業の導入を働きかけ、それを担当した英語教員(筆者)の他校への転出によって幕切れになった「ハングル基礎」。予想されてはいたが、引き継ぐ人がいなかったのである。信濃毎日新聞やNHK特集番組で取り上げられ、一時は学校の特色ともてはやされた韓国語の授業。それを制度化できなかった。悔しい思いとともに、担当教員として責任を考えざるをえなかった。

20021月に大学入試センター試験の外国語科目に「韓国語」が導入され、翌2003年には韓国語の授業を開設する高等学校が全国で200校を超えた。2004年度現在、全国で約250校に及び、長野県でも4校が開設している[1]。全国の高等学校における外国語の実施状況を表1に示した。

これまでの増加傾向が続けば、多くの高等学校で韓国語の授業を開設することになると期待する向きもあるが、授業を担当する教員の立場から見ると、そんな楽観はしていられない。韓国語教育の基盤はさほど堅固ではない。むしろ脆弱といわなければならないからだ。

 [1] 高等学校における外国語教育の実施状況

年度

2003

 

2001

 

1999

種別

私立

国公立[a]

合計

 

私立

国公立[a]

合計

 

私立

国公立[a]

合計

全学校数

1318

4117

5435

 

1318

4146

5464

 

1316

4148

5464

 中国語

133

342

475

 

125

299

424

 

121

251

372

 

10.09%

8.31%

8.74%

 

9.48%

7.21%

7.76%

 

9.19%

6.05%

6.81%

 フランス語

95

140

235

 

95

120

215

 

93

113

206

 

7.21%

3.40%

4.32%

 

7.21%

2.89%

3.93%

 

7.07%

2.72%

3.77%

 韓国語

60

159

219

 

52

111

163

 

47

84

131

 

4.55%

3.86%

4.03%

 

3.95%

2.68%

2.98%

 

3.57%

2.03%

2.40%

 ドイツ語

46

54

100

 

50

57

107

 

49

60

109

 

3.49%

1.31%

1.84%

 

3.79%

1.37%

1.96%

 

3.72%

1.45%

1.99%

 スペイン語

26

75

101

 

25

59

84

 

22

55

77

 

1.97%

1.82%

1.86%

 

1.90%

1.42%

1.54%

 

1.67%

1.33%

1.41%

注: 文部科学省、高等学校等における国際交流等の状況(2000, 02, 04年)ほかをもとに国際文化フォーラムが作成した資料。韓国語の実施校合計と実施率ならびに私立と公立の間で実施率に2ポイント以上の差がある外国語、03年度の実施率を太字で表示している。[a] 国立15校(200103年)、17校(99年)を含むが、韓国語を実施している国立校はない。

松本蟻ヶ崎の「ハングル基礎」は生徒たちにとって何だったのだろうか。韓国語を学ぶことで、彼らはどう変わったのだろうか。6年間の授業を生徒の側から捉えなおし、高校生が韓国語を学ぶ意味を考えたかった。転任先の塩尻志学館高等学校で、総合学科の選択科目の1つとして韓国語を開講するためにも、ぜひ確認しなければならない。そんな思いから、20027月、「ハングル基礎」の履修者190名にアンケート調査票を発送した。本稿はその調査結果にもとづく報告である。

. 長野県で初めてのハングル講座

松本蟻ヶ崎で3年生の選択科目(2単位)として韓国語の授業を開講したのは19964月のことだ。その前年から学内の外国語科や教育課程委員会等に働きかけ、最終的に職員会の了解をとりつけ、やっと開講にこぎ着けた講座だった。

教育課程委員会や職員会において表だった反対はなかったし、同僚の中に理解者もいた。職員のあいだに少なからず波紋を投げかけていたことを知ったのは、講座がスタートしてしばらく経ってからだった。長野県内では前例のない試みだったので、当然のことだったと思う。

「受験に関係ない」「外国語科の教員定数確保のためではないか」「他教科の教員の授業時間数を圧迫する」「教育課程とは生徒に何を“食わせる”かの問題だ(韓国語など“食わせる”に値しない)」等々の声が聞こえて来た。いずれも、韓国語を含む外国語教育の現状の一角を鋭く突いている。

「担当者が異動したらどうするのか」という声もあった。実際そのとおりになったが、「担当者がいるあいだだけでも開講したい」という思いで突き進んだ。講座が始まる前年、1995年の夏休みが終わってすぐの職員会で、とにかく開講が決まった。

「その他の科目」として長野県教育委員会に開講を申請することになった。当初「朝鮮語」という科目名を考えていたが、県の教育委員会から他県における名称の使用状況を参照に「ハングル」が適切との指導があり[2]、「ハングル基礎」として開講する運びになった。参考までに、2001年度の高等学校における科目名の使用状況を表2に示した。

 [2] 高等学校の言語(科目)名:2001年度

 言語(科目)名

私立

 

公立

 

高等学校全体

学校数

%

 

学校数

%

 

学校数

%

 ハングル[a]

8

15.4%

 

51

44.0%

 

59

35.1%

 韓国語

26

50.0%

 

12

10.3%

 

38

22.6%

 朝鮮語[b]

8

15.4%

 

21

18.1%

 

29

17.3%

 韓国・朝鮮語[c]

4

7.7%

 

24

20.7%

 

28

16.7%

 ハングル語[d]

3

5.8%

 

3

2.6%

 

6

3.6%

 国際理解(韓国・朝鮮語)

0

0.0%

 

2

1.7%

 

2

1.2%

 朝鮮・韓国語

0

0.0%

 

2

1.7%

 

2

1.2%

 韓国語・朝鮮語

1

1.9%

 

0

0.0%

 

1

0.6%

 コリア語

1

1.9%

 

0

0.0%

 

1

0.6%

 その他[e]

1

1.9%

 

1

0.9%

 

2

1.2%

 合計 

52

100.0%

 

116

100.0%

 

168

100.0%

注: 2001年度に韓国語教育を実施した高等学校を対象に国際文化フォーラムが作成した資料。定時制、通信制(夜間部・昼間部)を独立して扱い、一部の教科外と社会人講座等を含めている。

a. 併記型を含む。ハングル(韓国・朝鮮語)7|ハングル(韓国語)5|ハングル(ハングル語)3|ハングル(朝鮮語)1

b. 併記型を含む。朝鮮語(韓国・朝鮮語)1|朝鮮語(韓国語)1|朝鮮語(韓国[ハングル]語)1

c. 韓国朝鮮語4を含む。  d. 併記型を含む。ハングル語(韓国・朝鮮語)1  e. アジアの言葉|アジアを考える

 開講の期日が迫るにつれ、不安が募っていった。選択する生徒が少なければ、選択授業の「ハングル基礎」は開講されない。ちょうど3年生の科目選択を行なう時期だったが、この年に筆者が2年生の英語を担当していたことが幸いした。韓国語がどんな言語であるかについて英語教材を作成し、授業の中で韓国語にふれる機会を設けることができたからだ。韓国語を実施する高等学校の多くで、熱心に生徒集めをしなければ受講者を確保できないのが実情だ。

 「英語以外の外国語をやってみたいと思っていた」「韓国にペンパルがいる」「他に選択したい科目がなかったので仕方なく」。動機はさまざまだが、予想を超える生徒が集まってくれ、韓国語の授業を開講する見通しが立った。選択授業「ハングル基礎」は、スタートから生徒の後押しで成り立っていたのである。

. 韓国語教育を支える高校教員たち

 開講の見通しはついたが、もう一つ大きな問題が横たわっていた。1年間のシラバスをどう構成するのか、テキストを何にするのかが決まらなかった。決して筆者の怠慢のせいではない。現行の学習指導要領は英語以外の外国語教育について「英語に準じて」というのみで、何をどう授業で扱うかのガイドラインを定めていない。担当教員がすべて作らなければならないのだ。

 当時、2002年のワールドカップサッカーを控えて、松本市内の書店にも韓国語の学習書が置かれていた。90年代半ばまでは考えられなかったことだ。だが、大学生用の初級テキストはあっても、高校生用の教科書は1冊もなかった。

 年間の授業の組み立てや1時間ごとの授業運営も、当初はまったく手探り状態だった。初年度の卒業生の感想にも、「手探り状態」というのが筆者の口癖だったとある。韓国語教育をめぐる事情を伝え、生徒と一緒に授業を作るしかなかった。

 韓国語教育関係者からお叱りを受けるかもしれないが、これが実態だった。それでも、何とかして「ハングル基礎」を選択した生徒に韓国語の面白さ、学ぶことの楽しさを伝えたいと思った。6年間、そんな気持ちが筆者を支えていたのだと思う。

こんな状況にあった1998年の夏、駐日韓国文化院と国際文化フォーラムの支援を得て、第1回高等学校韓国語教師研修会が開催された。全国から34名集まった韓国語教員のなかに筆者もいた。英語・社会・国語などの教諭や常勤・非常勤の講師など、経験も立場も国籍も異にする教員が一堂に会した。感激と熱気に包まれていた。それぞれが悩んできたことを伝え合うだけで、どれほど勇気づけられたことだろう。みな同じ気持ちだったに違いない。

翌年の第2回教師研修会の会期中に高等学校韓国朝鮮語教育ネットワーク[JAKEHS][3]という全国組織を結成した。JAKEHSでは地域ごとの活動を基盤に、教授法や教材についてのノウハウ交換、基本語彙集の開発、学習のめやす作成や高校生用の教科書開発などの活動を行なっている。

韓国語教育に携わる全国の仲間たちが授業展開のヒントを話し合い、共通の課題を解決している。松本蟻ヶ崎の生徒とともに、JAKEHSの仲間たちが後押ししてくれた。その意味で「ハングル基礎」は全国的な広がりを持っていたといえる。

. 松本蟻ヶ崎の「ハングル基礎」

 松本蟻ヶ崎と長野県教育委員会ほかのみなさんの理解と応援を得て、年間で約50コマの授業を展開していった。以下、その一コマを紹介したい。「 」内は、実際の授業では韓国語で話す。

①できるだけ韓国語で

 生徒が理解できそうな韓国語を、できるだけ多く聞かせた。最初の授業は座席も確定していないため、生徒たちは教室の壁際にかたまっている。そこで「こんにちは。(お会いできて)嬉しいです。ここに座ってください」と、手招きしながら一人一人に話しかける。すると、生徒は順に席に着く。続いて、教師筆者の自己紹介をする。「こんにちは、西澤と言います。(お会いできて)嬉しいです」を何度か繰り返したあと、生徒たちの自己紹介につなげていく。

 ある時は、家族の写真を示しながら、「私の家族は6人です」と、家族の紹介をする。一人ずつ指さしながら「1名、2名、3名……」と、韓国語の数詞を導入する。また、生徒に「兄弟はいますか」と質問をし、「はい、います」と答えたら、「何人いますか」と尋ねる。

 授業中、教室内で使う生徒への指示も、可能な限り韓国語を用いた。また、授業で習った表現を自宅等でカセットテープに録音して提出させることにした。それをどんな観点から評価し、生徒にフィードバックするか等、評価法の確立は今後の課題の一つである。

②ゲーム感覚でハングルを導入

 「聞く・話す」活動を授業の中心にし、音声で習得したことがらを文字で後追いする形をとった。アルファベットと異なる文字体系を持つハングル文字を学習するのに、生徒は相応のエネルギーを費やさなければならない。ハングルが基本的に母音字と子音字の組み合わせで成り立つことに気づかせるため、次のようなクイズ方式の導入を試みた。

【次の「 」内の人名をハングルで黒板に書いて、生徒に問いかける】

ホサカ」「ウチヤマ」「クボタ」「カミシマ」「マルバヤシ」「ニシザワ」「ナカノ」「ミヤザワ」

教師:  さて、この8つは何を表していると思う?

生徒:  ……

教師:  じゃあ、ヒント。8つ、ですよ。

生徒:  (ヒソヒソ)

教師:  もう一つヒント。君たちに深い関係がある、人たち。

生徒:  わかった!クラス担任の名前だ。(ちなみにこの時の3年生は8クラス)

教師:  正解!じゃあ、どれがどの担任の先生の名前か、あててごらん。

 この導入法はJAKEHSの山下誠さん(神奈川県)のアイデアである。こうして文字の導入をすると、不思議と生徒は短時間のうちに教師の名前を言い当ててしまう。ゲーム感覚なのだ。

③映画を使った授業の一コマ

 「オゲンキデスカ」。韓国の若者たちのあいだでよく耳にする日本語の1つだ。中山美穂、豊川悦司主演の日本映画『ラブレター』が1999年に韓国で公開され、大ヒットを記録した。「オゲンキデスカ」は、映画のクライマックスで中山美穂が発したセリフである。

 日本でも韓国映画が記録的なヒットを飛ばすようになり、『8月のクリスマス』『シュリ』『JSA』などが公開された。特に『シュリ』(1999)はテレビ放映されたこともあり、生徒に馴染みがあった。そこで、『シュリ』の一場面を教材として取り入れた。文字を一通り学習し、少しずつハングルが読めるようになり始める段階で、映画のセリフを聞いて、(  )に入る語句を選択肢から選んで書き入れさせる。その一部を紹介したい。

【アクア・ショップを営むイ・ミョンヒョン(M)を訪ねて来た主人公のユ・ジュンウォン(J)が、Mと会話を交わす場面】

  M  どうしていらしたの」

  J  「(  )に会いに来たのさ、話をしていたところなんだ」

  M  どんな話をしたの」

  J  「(  )についてさ」

  M  何と言っているの」

  J  一緒にいることだって、死ぬ日まで」

 会話のスピードは速いが、何度か繰り返し聞くと、生徒は聞き取れるようになる。映画を教材にすることで韓国文化に親近感を持たせるのにも効果的だ。最近は韓国ドラマの人気の高まりもあり、「冬のソナタ」などを教材にしている教員も少なくない。

. 隣国理解を通じてグローバルに考える

 2001年度の選択者の一人は、「勉強したことのない外国語を学ぶことで、その言葉の持つ文化を認められるようになった。今自分が勉強していることばを毎日話して生活している人がたくさんいるんだから。なんか、それってすごい」と、少し興奮ぎみに語っていた。

「ハングル基礎」は外国語の授業なので、韓国語の4技能(聞く・話す・読む・書く)の習得が目的の一つだ。一方、教師としては、ことばを学んだ先に開けてくるすばらしい世界を、生徒たちに体験してもらいたい。試行錯誤を繰り返しながらも、一定の成果を上げることができると確信したのは、開講から3年目に始めた韓国の高校生との交流だった。

 19986月、韓国の京畿(キョンギ)()にある京花(キョンファ)女子高校(以下「キョンファ」)の生徒と松本蟻ヶ崎の生徒が文通を始めた。キョンファの日本語教師との出会いがきっかけだった。手紙をやり取りできる回数はさほど多くないが、生徒たちが隣国のことばとそれを話す人々を理解しようとする意欲を確実に高めた。それをだいじにしようと思った。

 学習を始める時点で生徒が隣国について知っていることは、ごく限られている。ワールドカップ2002の開催が近づくにつれ、生徒たちが韓国の情報に触れる機会は多くなったが、同世代の韓国の高校生たちがどんなことを考え、どんな生活をしているのかを知る機会はほとんどない。

 生徒たちはファッションや音楽について書き、プリクラの交換をして、ほとんどイメージを持てなかった隣国の高校生に親近感を覚え始めた。漠とした言葉だけの対象でしかなかったものに自分なりの内容を付与し、イメージを作っていった。

①『ほたるの墓』を題材にした授業[4]

 1998年夏、ソウルで行われた日韓合同授業研究会[5]交流会で、少し前から文通のやり取りをしていたキョンファの(リュ)虎順(ホスン)以下「ホスン」)さんに会い、日本のアニメ映画『ほたるの墓』に話が及んだ。日本では、野坂昭如氏が体験に基づいて戦争の悲惨さや愚かさを描いたとされる作品だ。

 学生時代に初めてこの作品を見たというホスンさんは「あの作品で描かれているのは、被害者としての日本の姿に過ぎない」と、違和感を率直に伝えた。いかにも韓国的な直球だった。筆者も受けた直球を返そうと思った。その後のやり取りを通じて、その年の秋に『ほたるの墓』を題材にした授業を、キョンファと松本蟻ヶ崎で並行して実施することにした。

 二つの学校の生徒が『ほたるの墓』を鑑賞し、彼らを対象に同じ内容のアンケート調査を行った。作品の感想のほか、日本と韓国の歴史上の人物や事件に関する項目を含めた。結果をまとめて交換し、比較したのだ。

アンケート結果の比較

 「自国が引き起こした戦争で、その国の庶民が苦しむのは自業自得だ」というキョンファの生徒の考えが、松本蟻ヶ崎の生徒に衝撃を与えた。一方、いずれの生徒も、親を失った幼い二人の兄弟がともに死んでいく場面に戦争の悲惨さや兄弟の絆を思い、戦争を引き起こした指導者層に対する怒りを感じるなど、共通の認識も少なくなかった。

 伊藤博文や(アン)重根(ジュングン)()寛順(グァンスン)など、日韓の歴史的人物に対する評価や認知度には、越えがたいギャップがあった。日本における「初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法制定の立役者」伊藤博文像と韓国における「侵略者、植民地主義者」伊藤博文像。韓国では彼を暗殺した(アン)重根(ジュングン)が民族的な英雄である。大きなギャップを目の当たりにして、双方の生徒が戸惑いを感じた。

 1919年の三一運動で活躍した()寛順(グァンスン)の名前を知る日本の高校生はほとんどいない。たとえ名前は知っていたとしても、韓国の高校生にとって彼女がどんな存在であるかを想像できる高校生は、皆無と言ってもいいだろう。双方が相手を完全に理解することは難しいだろうが、日韓においては、ギャップが大き過ぎるのだ。

 日韓の歴史的な関係について、キョンファの生徒が「考えることさえ嫌だ」「嫌悪感を感じる」と回答したことに、松本蟻ヶ崎の生徒は衝撃を受けた。逆に、キョンファの生徒は、韓国併合について松本蟻ヶ崎の生徒の約3割が知らなかったことに、失望と怒りを露わにした。「知らないというのは話にならない」と、教室が騒然となったという。

 双方の生徒が、同じ歴史的な事実に相反する見方があることを知り、歴史を相対的に見る視点を持った。それを実感することによって、自分たちだけの歴史理解にどんな問題があるかを、真摯に考えるようになった。

②ビデオレターの交換

 「ハングル基礎」を選択するのは3年生なので、受講した生徒はすぐに卒業してしまう。一方、キョンファでは日本研究班のクラブ活動のため、学習に継続性がある。1999年、キョンファの生徒は、松本蟻ヶ崎の生徒にもっと韓国を知ってもらうために、彼らの学校紹介と韓国の歴史や青少年文化に関するビデオ3本を作成して送ってきた。これに応じて、松本蟻ヶ崎の生徒もビデオを作成した。双方の生徒のあいだで、ビデオの交換を通じた対話が行なわれたのだ。

 韓国からの歴史編のビデオは、キョンファの生徒たちが韓国人の元従軍慰安婦が住むナヌムの家を訪ねて取材したもので、深刻な内容を含んでいた。松本蟻ヶ崎の生徒は、文通を通して彼らが日本のことに深い関心を持ち、友人になりたいと強く願っているのをすでに知っていた。だが、送られてきたビデオは、彼らのそんな気持ちとは別の内容を含んでいるように思えた。

 このとき、松本蟻ヶ崎の生徒たちは「自分たちの痛みとか、すべてお互い知った上で仲良くなりたいのかと思った」「それぞれの国の人がそれぞれの国のことをちゃんとわかってからでないと、仲良くなるのは難しい」というメッセージとして受け取めた[6]

 「ハングル基礎」を学ぶ前と後で生徒たちの何かが確実に変化していた。


③韓国に行ってみよう

 キョンファの生徒と同じアニメ映画を見て、文通やビデオレターを交わしてきた生徒たちは、短い期間でもいい、彼らに会ってみたいと思うようになった。筆者も、生徒たちに韓国語を使う機会を作りたいと考えていた。だが、高校生を連れて海外に行くのは、そう簡単なことではない。

 当時、長野県では海外への修学旅行が認められていなかった。高校生と一緒に韓国に行くためには、生徒が卒業した後、春休み期間を利用して個人的に行くしかなかった。筆者も個人の資格で参加することにした。保護者の理解を得て、やっと実現したのである。

 2001324日から27日まで、「ハングル基礎」を履修した3年生9名と筆者で韓国に行った。神奈川県立岸根高等学校と大阪府立阪南高等学校の韓国語の教員と韓国語を学ぶ高校生たち(11)とソウルで合流し、一緒にキョンファを訪ねた。教員たちのあいだに、全国的なネットワークができていたのだ。98年以来、生徒たちとともに積み重ねてきたものが一つ結実した。

 キョンファの学校長以下、全学が日本の高校生たちを暖かく受け入れてくれた。感動的だった。大部分の日程を日本研究班の生徒と一緒に行動した。キョンファの宿泊施設を借りて共同で夕食を作り、日本語の授業に参加させてもらったりした。すべて、学校の理解があればこそできることだ。グループごとにソウル市内にも出かけた。参加した生徒が次のような感想を書いている。

韓国旅行に参加した生徒の感想(2001年)

すっごくすっごくよかった!!という喜びと感動でいっぱいいっぱいの毎日でした。正直言うと、韓国に実際行くまでは、私の韓国へのイメージは決していいものではありませんでした。韓国の人たちは、私たち日本人に対してまだ強い不信感や嫌悪感を抱いているのではないかという不安、何か日本より遅れているような、そんな自分勝手な想像を抱いていたからです。しかし、これらの私のイメージは実際に韓国へ行って人々と触れ合った途端、消え去ってしまいました。

お互い違う言語をもっているので、なかなか簡単には自分の意志を伝えあうことができませんでしたが、わかり合えた時の喜びと感動といったら、言い表しようがありませんでした。その感動は、日本にいてはなかなか味わうことができないものだと思います。

今回、実際に私と同じくらいの年の子たちと会うことができて、本当によかったです。別れ際に泣いて別れを惜しまれたことなんて、今までありませんでした。私も胸がいっぱいになってしまいました。

この旅行を通して私は自分に欠けていたものを色々と教えられた気がします。目上の人を敬う心、人を思いやり心からもてなす心、一生懸命分かち合おうと努力する心等々、今の私に不足していたものを気づかせてもらいました。

 日本に帰ってきて、新聞やニュース、雑誌などで「韓国」の文字が見えると、パッと目がいくようになりました。これもこの旅行のお陰です。少し視野を広げることができたようです。これからも韓国語を学び続けたいです。そして必ずもう一度行きます!ありがとうございました。

2001年夏の歴史教科書問題の余波を受けて、日韓の交流事業が中止されるケースが目立った。国と国の交流はいろいろな意味で強力だが、係争が生じると暗礁にのりあげてしまう。生徒たちには、個と個の付き合いを体験してもらいたかった。

個人どうしは細いつながりのようだが、国際情勢などの影響を受けにくい強靭さを持っている。個人どうしのネットワークを無数に張りめぐらせたい。相手の言葉を知ることが、そんな個と個の付き合いを可能にしてくれる。語学教育はそのためにこそあるのだと思う。

. 高校時代に韓国語を学ぶ意味

「クラブの先輩が授業で習った簡単なことばを教えてくれたり、ハングルの授業のある日の朝なんか“楽しみ”と言っていたので興味をもった」。

開講から数年経つと、こんな声が聞かれるようになった。生徒たちのあいだで授業が定着したのである。にもかかわらず、授業担当者である筆者の異動とともに授業を終えなければならない。残念でならなかった。

これが韓国語教育の置かれた現状なのだ。では、「ハングル基礎」を選択し、高校時代に韓国語を学んだことは、生徒にとってどんな意味があったのだろう。彼らは何を学んでくれたのだろうか。彼らの声に真摯に耳を傾け、高校時代に韓国語を学ぶ意味を考えることで、松本蟻ヶ崎における6年間の実践を検証したいと考えた。

1996年度から2001年度に「ハングル基礎」を選択した生徒190名を対象に、20027月にアンケート調査票を郵送し(11名は転居先不明等で返送)、64名から回答を得た(回収率36)。調査項目は巻末に掲げたとおりである。

①韓国語を選択した動機

毎年第1回目の授業で「ハングル基礎」を選択した動機を把握していたが、今回の調査で毎年の調査結果と同じ傾向を確認した。「英語以外の外国語をやってみたいと思っていた」(67%)、「韓国に関心があった」(30%)、「先輩から授業の話を聞いて面白そうだと思った」(30%)、「アジアに関心があった」(30%)、「受験科目に関係ないので気楽にできそうだった」(31%)。

②卒業後も韓国語や隣国と関わっている

卒業後も何らかの形で関わる機会があると答えている者が約65%。韓国映画を見たり、韓国・北朝鮮関連のテレビ番組を見たり、新聞記事をよく読むようになったという者も多い。韓国人の友だちを作ったり、卒業後も何らかの形で韓国語の学習を継続しているという回答も少なくない。

③後輩にも韓国語の選択を勧めたい

98%が「後輩に勧める」と回答。高校時代に韓国語を学んだことに意義を見出しているからこそ、後輩にも勧めるのだ。

以下、アンケートに寄せられた生徒の記述を分類したものである。( )内は授業を選択した年度を示す。

5-1. ハングルっておもしろい

 生徒は高校入学以前に外国語として英語を学習しているから、外国語と聞くと英語を連想する。彼らの母語である日本語や、それまでに学習した英語という窓から外国語を捉え、世の中や世界を見ているのだ。そんな彼らに、韓国語の学習はどう映ったのだろうか。

1 ハングルを覚える楽しさ

アルファベットとは違う独特のハングル文字が読み書きできておもしろい。(1996

ハングル文字を書いたり読んだりすることが純粋に楽しい。(1997

最初は新しい言語を学ぶことに抵抗があり、英語の他に覚えられるのか心配だったが、基本的な文法やハングルの読み書きを勉強していくうちに、自然と慣れていった。新しい単語や文字を覚えることが楽しくて、お昼の後の授業でも、いつも目はさえていた。

 韓国語は思っているほど難しいものではなく、単語などを覚えれば、文法は日本語とあまり変わらないので勉強しやすい。授業がとても楽しく感じられた。何より、学校の友人たちにハングルで習った自己紹介などをした時に、とても喜んでもらえたことが嬉しかった。(2000

高校3年間の授業の中で一番楽しかった。ハングルを学んで友だちと話せたり、名前も書けるようになっていくうちに、もっともっといろいろ知りたくなった。(2001

友だちとふざけて、よく韓国語でしゃべって笑ったりした。ハングルを目にすると、ついつい解読しようとしていた。(2001

 外国語はアルファベットで表記されるものと思い込んでいた生徒にとって、ハングルは得体の知れない記号のようなものだ。初めは文字の習得が大きなハードルとなり、多くのエネルギーを注がねばならない。だからこそ、その記号が文字として認識されることは生徒にとって大きな喜びなのだ。回答を寄せた生徒の半数以上は、文字の学習が一番楽しかったと感じている。



2 学びやすい言葉

韓国語は、文章の作り方が日本語とほとんど同じなので、学びやすかったし、覚えやすかった。意味はわからないけど、文字が読めるようになり嬉しかった。(1997

日本語、英語、他のヨーロッパ言語とはまったく違い、馴染みがなく新鮮で面白い。言葉の並び順は日本語とほとんど同じなので、わかりやすい。(1997

英語とは違い、日本語と言葉の順番が似ていて、なじみやすい言葉だ。(1998

英語とは違って、韓国語は日本語と似ている部分があって、すぐ頭に入ってきたので、とても楽しかった。まだ誰もが話すほどには普及していない言語なので、みんなの前で喋ってみせるのも楽しかった。(1999

単純に英語以外の外国語というだけでも選択する意味がある。文法が日本語と同じなので楽。すぐ読めるようになるので、おもしろい。(1999

 日本語とよく似た言語であることが、韓国語を学ぶ楽しさにつながっている。英語を話す時には、常に「主語+動詞…」や「疑問詞+助動詞+? 」など、日本語と異なる語順を意識しなければならない。韓国語はそういう必要がない。日本語の発想で使える外国語があること自体、彼らにとって新鮮な驚きなのだ。

5-2. 学ぶことの楽しさを発見

韓国語を学ぶことは、単に文字が読め、日本語の発想で使える外国語が面白いと感じるだけにとどまらない。それを使って意思疎通ができることに、楽しさを感じた生徒が少なくない。教科書や問題集にあったことがらを暗記し、試験という場で再生産する作業とは異なる「勉強する」楽しさを発見する機会になった。生徒たちの知的好奇心の高さと意欲の強さがそれを可能にしたのだ。

3 楽しかった毎回の授業

テストの点数をとることに関係なく(勉強できるので)、勉強したいという意欲が持てた。(1996

高校の授業の中でも記憶にはっきりと残る授業。強制される勉強やテストのための勉強ではなかったのが、楽しさにつながったと思う。(1996

ハングルの授業は、いつもちょっぴりドキドキした。教室に向かうときも、友だちと前回習ったことを楽しく口にしたものだ。(1996

ハングルの授業がある高校は、まだそんなにたくさんないと思う。そんな中で韓国語を学べ、大変新鮮だった。勉強ではなく、自ら興味を持って授業に臨み、楽しみながらやれた。(1997

高校時代で最もよく覚えている授業。言葉というより人と触れられたことが楽しかった。受験後も、どこかで必ず役立つと思う。後輩たちも高校生の時期に是非こういう授業を受けてほしい。(1999

高校3年間の中でハングルの授業は1、2を争うくらいに楽しかった授業で、その日は学校に行くのも、とても楽しみだった。受験と関係ないからかもしれないが、勉強していて楽しいと感じることができた。学校で覚えた韓国語を、家に帰って早速家族の前で披露したのを覚えている。音楽大学に進学したせいもあるかもしれないが、へたな普通科目よりも勉強して役に立っているし、何より楽しかった。

 この講座で勉強できたことを本当に意味あるものだと思うし、他の高校生にも味わってもらいたいと思う。楽(らく)して楽しいという低い次元でなく、自分に知識がつく。そのことが楽しい。自分の知らないことを知ることができて楽しい。そんな授業だった。授業で習ったこと、旅行に行くために習った簡単な日常会話などが現地へ行って相手に通じ、本当に嬉しかった。とてもいい経験ができた。これからの高校生にも、ハングルを勉強させてあげたい。(2000

ハングルの授業のある日は朝から楽しみだった。どんどん好きになっていくのがわかって、もっと続けたかった。(2000

 「ハングルの授業は、いつもちょっぴりドキドキした」。本稿の表題に、表3に掲げた96年度の生徒の文章を使っている。このわくわく感こそ、もっともだいじだと思うからだ。一人でも多くの高校生に、韓国語を学ぶ楽しさを感じてもらいたい。

5-3. 韓国語を学んで変わった

 「ハングル基礎」は4技能の習得をめざした外国語の一科目だが、生徒が学んだのは言語の技能にとどまらない。韓国語を学び、それを媒介にして隣国の同世代の若者と交流することによって、多くを感じ、深く考えたのである。

4 隣国理解と自国の再認識

最も早い時期に触れる外国語は英語だ。そのせいか海外というとアメリカやイギリス、そしてヨーロッパなどにしか関心が向いていなかった。日本の隣の国の言語や生活文化等を知らなかった自分に驚いた。「ハングル基礎」を学んで変わったことは、視野が広くなったことだ。歴史上の出来事について深く考えるようになり、いまだに日本に対して許せない気持ちを抱いている方もいる、ということを知った。でも、日本について学び、文通してくれる友人もいるということを知り、色々と考えさせられた。(1998

「ハングル基礎」を選択したことに特に理由はなかったが、高校のあの時間がとても楽しかったのをよく覚えている。父母も韓国や北朝鮮について前よりも興味を持ってくれ、先日も先生のお出しになった本[7]を送ってくれた。とても些細なことかもしれないが、インスタントカメラのことをずっとバカチョンと言っていた父が、言わなくなった。(1999

昔から韓国に対して悪いイメージはなかったし、韓国の人が日本に対してよくない感情を持っているのも知っていた。ハングルを選択して、韓国の人の日本イメージが変わりつつあることを体感できた。(1999

言葉の学習を切り口に韓国や日本についても考えていくことになるので、一人一人に新たな発見があり、考えるきっかけになると思う。(1999

まったくわからなかった言語なのに、勉強していくうちに日本語と同じように親しみが持てて、韓国という国に対して、日本と同じように親しみが持てるようになった。他国のことを理解するには、その国の言語を勉強するのが一番いい方法だと思った。(2001

本当に近い国なのに、何も知らないことがあまりにもたくさんあった。在日コリアンの話も初めて聞いて、すごく大切なことを知った。日本語と似ているようで、ちょっと親近感を感じた。まったく知らなかった韓国のことをもっと知って、お互いの国も仲良くなれたらいいと思った。(2001

 韓国語を学ぶことは、アプローチの仕方によって過去の歴史とどう向き合うかを問うことにつながる。授業を担当する者にとって、植民地期の歴史を中心とする「負の歴史」をどう教えるかということは大きな課題だ[8]。韓国語の授業の中で、どのような方法でこの問題にアプローチするか、非常に難しい。

 例えば、「侵略戦争は悪だ」と高校生に説いても、「悪いことは悪い」と当たり前のことを言うのに等しい。それを教師が一方的・教条主義的に生徒たちに押しつけても、生徒たちの魂や感性は振れない。かえって反発を受けるだけだ。今も、そのような手法で教えている教員が少なくないように思う。筆者も、6年を通じて常に自戒しながら授業を行った。

5 韓国の高校生との交流

英語以外に外国語があることを肌で感じた。何より、文通で、隣国の同い年の子たちが日本の若者に強い関心を持っていることを知って、びっくりした。(1998

「ハングル基礎」を選択し、韓国の高校生と交流したことで、韓国に対して興味と関心を持つようになった。同世代の人々と交流したことで、韓国という国に対して漠然と抱いていたイメージなどにとらわれなくなり、等身大の人々を感じられるようになった。言葉の学習だけでなく、韓国と日本の関係や歴史問題についても考えるようになり、次第に知りたいと思うようになった。学ぶことに楽しみを感じた。

 韓国の人々に今でも反日感情があることに対して、以前は諦めのような念を持っていたが、韓国語を学んでからは、それを変えていきたいという意欲が出て、積極的に考えられるようになった。言葉にとどまらず、生活・文化・伝統・歴史・政治等にまで広く興味を持つように変わったのが凄いと思う。(1999

韓国旅行で道に迷ったとき、文字の読み方や簡単な単語を知っていたおかげで、無事目的地にたどり着けた。(1999

何より楽しかったのは文通だ。必死に辞書を引いたり先生に聞きに行ったりして送った手紙を、韓国の学生が喜んでくれた。国の過去とは切り離された、人と人のつきあいができたと思う。(1999

私たちよりずっと上の世代の韓国の人たちは、日本のことを嫌っている人が多いと知ってショックだったが、若い人たちには仲良くしたいと思ってくれている人が多いことがわかって、嬉しかった。若い人たちどうしは仲良くできると思うし、私もしたいと思う。(2000

 これらの記述を読むと、韓国語に限らず、外国語教育の意味とその授業を学校教育の中にどう位置づけるかが問われていると感じる。その問いに答えるには、生徒が学校の授業に何を求めているかを知らなければならない。彼らのニーズに合った授業を創出しなければならないと思う。

 1998年の京花(キョンファ)との合同授業や翌年のビデオ交換、20013月のナヌムの家訪問を通じ、それぞれの年の生徒たちは確実に何かをつかんでいた。各年度の生徒たちに共通しているのは、同年代の韓国の若者について知ろうとすることだった。目の前の現実を直視し、そこから自分の考えを導き出そうとしていた。その道具として、言葉の学習が有効だったと思う。言葉を学ぶ楽しさを通じて、生徒たちが外に向けた好奇心を抱くきっかけを提供することが、外国語教師の役割だと考える。

6 歴史に対する関心:日韓のギャップ

学校の歴史の授業では教わらない韓国や北朝鮮の歴史、日本との関係、また文化を知ることによって、韓国や北朝鮮への関心だけでなく、戦争が産んだ悲劇などを学ぶきっかけになった。(1997

(日本と朝鮮との)歴史的な関係を知り、もっと深く社会科の授業で学ぶ必要があると思った。歴史の重みを感じることができた。(1998

韓国と日本の歴史に関する授業内容が双方で違っていることを知って驚いた。例えば、竹島の問題など。韓国の高校生が当然知っていることが、私たちには何も知らされていない。歴史問題を考える上で、双方に知識と感情に差がある。そこから直していかなければ、話し合うことすらできないと思った。(1999

私は韓国の学生や被害者に謝ることはできないし、涙を流すのも嘘っぽく感じてしまう。だって私がしたことじゃない。だけど抱えて行かなくてはならない。日本人としてのアイデンティティを押しつけられた時に生じてしまうことを、受け入れなくてはいけないのだろうか。この社会にいて、自分は一体何者なのかと考える時、戦後残されてきた問題について考えることは不可避だと思う。いろいろ考えるためのきっかけやヒントがあったのが、ハングルの授業だった。(1999

視野が広まった。自分の知識や意識の低さと、両国の歴史に関する勉強不足と無知を感じ、幅広いことに興味を持てるようになった。他の言語を学ぶ上でも役に立つと思う。(2000

隣国の言葉を学んで自分なりの隣国観を見いだした彼らは、隣国を越えて、他の地域の人々に思いをはせ、自分の殻を打ち破っていく。世界観を広げた彼らの目は外側ばかりではなく、自分もその一員である日本社会や日本人に向かう。他の文化と自分が属している文化を相対化することで、自分自身の存在の意味、アイデンティティを探るようになる。


7 視野の広がり

ハングルを学んだことで、以前よりもアジアや日本に目を向けるようになった。それまではアメリカや西欧にばかり関心がいっていたが、ハングルの影響で身近なアジアについてもっと知りたい、知らなければと感じるようになった。同時に、自分の国日本について韓国などと比較して考えるようになった。(1996

これだ!というふうに一つに凝り固まっていた自分の考え方が、よい意味でなくなったように思う。前よりは、まわりをよく見渡せるようになったと思う。(1999

私たちの考えがすべてではない。国によって違うということを強く実感した。(1999

韓国語の勉強を通して、自分の世界が少し広がったし、日本とアジアについて着目する機会になった。日本とアジアの交流が進むことは、今も私の大きな願いだ。(1999

社会科では学びきれない今の韓国のことを見ることができた。同時に意識することもなかった日本のこと、自分が日本人であることなどを、あらためて考えるきっかけになった。(1999

韓国の学生はとても元気で生き生きとしていて、明るく楽しい。自国のことを正しく認識しようという気持ちがとても強く、勉強熱心で、とても感心した。同じ学生として、自分もこれではダメだと感化された。今まで抱いていた偏見が一気になくなり、それまで何もしようとしなかった自分が恥ずかしくなった。

 言葉を学び、心を通わせ合う楽しさを実感することができた。この経験が、私のものの見方と視野を確実に広げてくれた。(2000

 「ハングル基礎」が韓国語の授業だけにとどまらないで、韓国の高校生と内容のあるやり取りを行ったことが、双方の生徒たちの隣国観を変え、自国観の見直しを強いたのであろう。それを通じて自分を見つめ、アイデンティティについて考えることになった。筆者はそう評価している。

5-4. 韓国語をやってよかった

生徒たちが韓国語を選択してよかったと思うのは、高校在学中にとどまらない。多くの生徒が、卒業後も隣国の人々や文化との接点を持ち続けている。松本蟻ヶ崎の「ハングル基礎」は6年間で終わったが、卒業生たちの中に脈々と生き続けているのだ。

8 卒業後に感じたこと

韓国語を勉強しているときとその直後は、勉強をしてプラスになったとはあまり思えなかった。高校卒業後、韓国人の友人に出会い、高校時代に韓国語を勉強していたことで、彼らを身近な存在に感じ、違和感なく受け入れられたとき、勉強しておいてよかったと思った。(1996

大学で韓国の人との出会いがあり、何を話そうなどの迷いもなく、韓国語で挨拶から入っていける。大学には韓国語の講義はないので(あったらとっていた。残念)、高校の(韓国語)教科書を持っていって、それをネタに話したり、ペンパルの話もした。今、アルバイトで子どもの美術教室のアシスタントをしているが、教室の5分の1くらいが韓国の子たちだ。

 クレヨンで書かれたハングルの名前を読み上げると、初め子ども達はキョトンとしているが、ビックリしたように「先生、読めるのー!」と嬉しそうに話しかけてくれる。韓国に行った話などもしてくれる。このように話題があったり、互いに信頼関係が深まっていったりするのも、「ハングル基礎」を受講したことが大きいと思う。

 他の人がやっていないことをすること、それを続けていくことは本当に大変で努力を要することだ。早いうちに英語以外の言語を学ぶのは、子どもにとって、とてもいい刺激になると思う。他の教科との関連も図れるし、世界に向けて視野が広がると思う。(1998)

1年という短いあいだだったので、そんなに話せるようになれるほど勉強できなかったが、少し挨拶だけでも知っているだけで、韓国人の友だちとも仲良くなれた。(1998

ことばだけを習ったという気はしない。韓国の高校生と交流して、泣いたり笑ったりしたからだと思う。「ハングル基礎」をきっかけに韓国という国に対して親近感を持つようになった。今は、自ら韓国人の友人を作って手紙等で交流している。授業で習った文法は時間的にも限りがあり、少ないけれど、その後の意欲さえあれば自力で継続することができる。人生を変えるようなきっかけを与えてくれた「ハングル基礎」の授業は得るものが多かった。忘れられない。(1999

言葉を勉強することで国が違う人とも話すことができるし、いろんな考えを持った人と交流が深まる。その国の歴史や文化についても興味が出てくると思う。高校の頃は何となくとっていた授業だったが、今その授業のお陰で韓国の友だちができて、すごく嬉しい。今でも文通している韓国人の友達は、高校の頃からずっと日本に留学したいと言っていた。北九州に留学しているそうだ。すごくよかったと思う。(2000

ただ言語を話すだけでなく、CDや映画、ドキュメンタリーのビデオなどを用いた授業は他の科目と違い、考えさせられるところや感動する部分が直に感じられて、自分の将来を考える上で、きっかけの一つになった気がする。(2001

 「隣国の言葉を学んでよかったと思える瞬間をいかに作れるか」。そう問いかけた韓国語の教師がいた。脆弱な基盤の上に成り立っている韓国語の授業を学校教育の中に制度として位置づけるためには、この問いに対する回答を示さなければならない。

 「ハングル基礎」履修者の回答を繰り返し読んでいると、生徒たちが「ことばを媒介にしてどれだけ人と人の出会いを作れるかだよ」と教えてくれているように感じる。同時にそれは、いかにしてそういう出会いを作るかという問いでもあるのだが。

 表4-8に共通しているのは、言葉の学習を通じて得た何か、言葉が多少なりとも通じることで可能になった何かである。1年間の学習で獲得できる語学力には限りがある。一方で、彼らには十代後半の青年が持つしなやかな感性と柔軟な思考力がある。彼らの年代特有の感受性と知識欲が言葉の学習と結びついた時、教師の想像を超える力を発揮するのだ。

 隣国の言葉を学んでよかったと思える瞬間は、その時だけのものではない。それを持続できれば、なおよい。教師の役割は、結局、生徒たちの感性にどこまで訴えるかであろう。その訴えは、卒業して何年か経ったあとに気づくようなものでもよいはずだ。

. 韓国語教育の制度化のために

 松本蟻ヶ崎の「ハングル基礎」の授業をアンケート調査にもとづいて振り返ると、授業をめぐる試行錯誤が、つい昨日のことのように思い出される。190名の生徒たちと一緒に試行しながら、ともに作り上げた6年間だった。筆者にとって何物にも代え難い実践であった。

 生徒が何を感じ、何を得たかは、彼らの回答に十分述べられていると思う。その確かな手ごたえをふまえ、韓国語の授業を他の地域の学校にも広げられたらと思う。韓国語教育を学校教育の中に制度として根づかせるにはどうしたらよいのだろうか。担当教員の異動によって授業がなくなってしまうような事態を繰り返さないために、何をすべきだろうか。

 韓国語についての指導要領はなく、「英語に準じる」とされているだけである。JAKEHS西日本ブロックが「学習のめやす」作成(2000年)に続いて、教科書作りに取り組んだのは学習指導要領の不在を埋めるための試みであった[9]20042月に初の高校生向け教科書が発行された意義は、時間とともに大きくなるに違いない。

 後期中等教育の中に韓国語の授業を位置づけ、確たる基盤を築いていくには、制度的な条件整備が不可欠である。韓国語教育を支えている者の多くは、英語・地歴公民・国語などの科目を教えながら韓国語を教える教員たちである。このような現状を踏まえ、韓国語の担当教員について記すことで、本稿を締めくくりたいと思う。

韓国語を教えられる教員の確保を

 常勤の教員が韓国語の授業を担当することが望ましいが、現状では難しい。それをサポートする教員が各学校に存在することが重要だ。韓国語の教員免許状を有する教員を計画的に採用したり、現職教員が免許状を取得するための講習[10]に参加することを支援する体制を整えていただきたい。大半の自治体において韓国語の専任教諭を採用することは困難であろう。韓国語に加えて他教科・他科目の免許状(英語ほか)を有する人材の確保を、大学との連携のもとに検討していただきたい。韓国語をめぐる状況を考えるとき、これが最も現実的な一歩だと考えるからである。

おわりに

 「なんで朝鮮語なんかやるの?」。筆者が大阪外国語大学の朝鮮語学科に在籍していた80年代前半、幾度となく問いかけられた言葉だ。その問いに対する一つの答えが、松本蟻ヶ崎の「ハングル基礎」だった。大学卒業後、約10年の空白の後に韓国語を高校生に教えようと決心した。学生時代にもそんな思いは漠然とあったが、長野県で可能だとは考えていなかった。

 「ハングル基礎」を始めてから、190名の生徒のほか、JAKEHSや日韓合同授業研究会の仲間、報道関係者や授業を支えてくれた学校関係者など、次から次へと新たな出会いがあった。これからも新しい出会いがあるに違いない。筆者が着任して1年経った20034月、塩尻志学館高等学校で韓国語を開講することになった。

 「なんで韓国語やらないの」。ここ数年、全国の高校生の声がしだいに大きくなっている。今こそ、彼らの声に応じられる学校と教師の側の態勢を整えることが問われている。

 

 

 本稿は「韓国朝鮮語教育と交流の在り方−ハングル基礎の実践から」(信濃教育会『信濃教育第1379号』平成1310月)を基に、2002年に実施したアンケート調査の結果をふまえて大幅に加筆したものである。

 

 

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1) 文部科学省「高等学校等における国際交流等の状況」(2004)によれば、2003年度現在、全国の高等学校219校で外国語科目として韓国語を実施している。200412月の朝日新聞調査によれば、全国で247校が開設している。

2) 199827日付けで、長野県教育委員会事務局教学指導課担当指導主事より学校長宛に「その他科目の名称について」と題した通知がファックスで示された。調査が不十分であり、判断の根拠は説得力に欠ける。

3) 高等学校韓国朝鮮語教育ネットワークの英文名Japan Association for Korean-language Education at High Schoolsの略。 http://jakehs.org

 

4) 西澤「異文化理解のための手だて」『1999年第5回交流会授業報告書』(日韓合同授業研究会)を参照。

5) 日韓の教師達が授業実践等の交流を行う市民グループ。 http://www.asahi-net.or.jp/~et5k-hr/

6) 1999813日放送のNHKスペシャル『隣の国はパートナー日韓新時代への模索』で紹介された。

7) 拙著(室井美稚子との共著)『アンニョン!コリア』(三友社出版)。韓国のことばや文化、歴史などを英語をとおして理解するための高校生向け英語教材。

8) 加えて、最近は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へのアプローチも大きな課題となっている。

9) 2度の改訂作業を経て、2004年に『高校生のための韓国朝鮮語Ⅰ好きやねんハングル』(白帝社)を発行した。2005年度から『高校生のための韓国朝鮮語Ⅱ・Ⅲ』(合本)の制作に取り組む予定である。

10) 2001年から03年にかけて、天理大学(奈良県)と神田外語大学(千葉県)で、主に現職の高校教員を対象とする韓国語の教員免許取得のための集中講座が開かれた。約60名が受講、内35名が韓国語の教員免許を取得した。現在、06年度の開講に向けて、JAKEHSが受講希望者を募っている。